大窪とも書いた。雨山川および住吉川の下流域に位置する。地内には、「拾遺泉州志」(かりそめのひとりごと)の著者中盛彬を出した泉南地方の名家で、和泉三十六郷士の1つに数えられる降井家の書院が残り、江戸初期の面影を伝えている。
〔中世〕大窪村
室町期に見える村名。和泉国日根郡のうち。初見は、応永9年]10月26日の根来寺赤谷某田地売券(中家文書/京大古文書室影写本)で、「在所ハ大くほ・御門ノそい」とある。
また文明17年2月19日の弘誉畠地売券(同前)には、「和泉国日根郡熊取庄内大クホ村」と見え、地内の耕地が売り渡されている。ほかにも長禄4年10月28日の舜盛房田地売券をはじめ中家文書中の土地売券には当地名が頻出し、地内の耕地の多くが中氏に集積されていることがわかる。
〔近世〕大久保村
江戸期~明治22年の村名。日根郡のうち。岸和田藩領。
村高は、四郡高附によれば正保2年605石余、「天保郷帳」では南郡のうちに見え694石余、「旧高旧領では707石余。文禄3年12月10日の次郎五郎田地売券(新川家文書/泉佐野市史)に「大くほ一色也 無役」と見え、地内の田地が売り渡されている。
当村の降井家は泉南地方の豪族で、岸和田藩大庄屋7人のうちに数えられ苗字帯刀を許されていた。同家は天保年には8,500㎡の敷地に広間・書院・土蔵などを有しており,特に書院は桁行52尺6寸・梁間26尺6寸、寄棟造り・茅葺で江戸初期の建立という。
神社は事代主神社、寺院に臨済宗法禅寺がある。明治9年の人口919。同14年大阪府に所属。同22年熊取村の大字となる。
〔近代〕大久保
明治22年~現在の大字名。はじめ熊取村、昭和26年からは熊取町の大字。
昭和5年国鉄阪和線熊取駅開業。
同27年の世帯数467 ・ 人口2,457。同55年泉佐野市鶴原・下瓦屋の一部を編入,同時に当地の一部を泉佐野市に編入。
〔現代〕大久保区
熊取町の中で駅前を含む海側の地区で正式には、大久保区 と呼ばれています。
大久保区は区内を1区~7区で区分けされており、区内では 大久保~区と呼ぶのが一般的です。
又、大久保の字地の平見は3区に属しています。
平見は西犬鳴街道の平見峠付近に位置する。
平成十年三月時の大久保区の戸数約一千九百戸、人口五千二百名余り、泉州地区で地車を曳く地域の中でも戸数、人口とも多い地区になります。 (平成十九年度の調査では3392戸、人口9584名)
大久保には、大久保区、青年団、地車会、子供会の祭りに参加する団体のほか、長生会、婦人会、消防団、があり町内、区内の各種行事に参加、協力しております。